日本は夏休みですね。
僕の夏休みの思い出といえば花火です。
子供の頃、隣町の花火大会にオヤジの漕ぐ自転車の後ろに乗って行ったことを良く覚えています。
でも。。。僕には弟がいるので、たぶん弟も一緒だったと思うのですが。。
と言うことは、弟がオヤジの自転車の後ろで、僕は自分で自転車を漕いでいたのかもしれない。。。
記憶が定かではないなあ。。。さっき、良く覚えていますって書いていますね。ウソつきだ!
でも、山の中腹の道から下を流れる猪名川から上がる花火を見ていた光景は良く覚えています。
広島県の福山という町に暮らしていたときには、芦田川という川で花火大会がありました。
川から離れたところで暮らしていたのですが、地方都市で高いビルがなかったのでマンションのベランダからでも良く見えました。
あの時は何を考えながら花火を見ていたのだろう。。。
広島にいる頃は大田川という広島の街中を流れる川で花火大会がありました。
渋滞する車の中から、真上に上がっていくように見える花火を見上げたことが懐かしいですね。
大阪に戻ってからは淀川の花火大会が会社から見えました。
毎日遅くまで仕事をしていたのですが、みんなで窓際に集まってボーッと放心状態で花火を見上げていたことを覚えています。
やはり夏は花火大会ですね。
少し甘酸っぱいような思い出がよみがえって来ます。
でも、台湾の人に聞かれたのですが「なぜ日本では花火と言えば夏なの?」って。。。。。
そう言えば、日本では「花火=夏」ですよね。
台湾では特に季節は関係ありません。
大晦日のカウントダウンに花火をしたり、旧正月には爆竹とかバチバチやりますしね。
誰かご存知ないですか?日本の花火大会が夏に開催される理由?
2007年08月14日
2007年03月26日
2007年3月26日 風林火山
NHKで「風林火山」やっていますね。
昔々に映画を見に行ったことを思い出しました。
子供のころ隣の家は郵便局でした。
そこにひとつ年上のせっちゃんと呼んでいた友達がいたんです。
せっちゃんのおじいちゃんに誘って貰って三人で行きました。
いつも下駄を履いて、かくしゃくとしたおじいちゃんでした。
僕達近所の子供たちはみんな良く可愛がってもらっていました。
優しいおじいちゃんでしたね。
僕は大阪の郊外で育ったのですが、映画を見に大阪の街まで電車で行きました。
僕は子供のころ電車に良く酔っていたので、あまり出かけるのは好きじゃなかったんです。
でも、そのときは喜んでついて行ったようです。
「風林火山」って歴史モノですよね。
全く覚えていません。
さすがに小さかったんですよね。
始まって直ぐに寝てしまったらしい。。。
でも、映画の後にお鮨屋さんに行って、バッテラ寿司を食べたことを覚えています。
そっちの方が良く覚えているかな?
懐かしいなあ。。。
昭和の話ですよね。
近所のおじいちゃんと一緒にでかけるなんて、今じゃあまりないですよね。
僕にには古き良き時代でした。
昔々に映画を見に行ったことを思い出しました。
子供のころ隣の家は郵便局でした。
そこにひとつ年上のせっちゃんと呼んでいた友達がいたんです。
せっちゃんのおじいちゃんに誘って貰って三人で行きました。
いつも下駄を履いて、かくしゃくとしたおじいちゃんでした。
僕達近所の子供たちはみんな良く可愛がってもらっていました。
優しいおじいちゃんでしたね。
僕は大阪の郊外で育ったのですが、映画を見に大阪の街まで電車で行きました。
僕は子供のころ電車に良く酔っていたので、あまり出かけるのは好きじゃなかったんです。
でも、そのときは喜んでついて行ったようです。
「風林火山」って歴史モノですよね。
全く覚えていません。
さすがに小さかったんですよね。
始まって直ぐに寝てしまったらしい。。。
でも、映画の後にお鮨屋さんに行って、バッテラ寿司を食べたことを覚えています。
そっちの方が良く覚えているかな?
懐かしいなあ。。。
昭和の話ですよね。
近所のおじいちゃんと一緒にでかけるなんて、今じゃあまりないですよね。
僕にには古き良き時代でした。
2007年03月18日
2007年3月18日 祖母
日本からの出張者が来ていて、ブログ更新できませんでした。
スミマセン。
15日は母の誕生日でした。
忘れていませんでしたよ。でも「おめでとう」を言葉で直接伝えることはもうできないんですけどね。
今日は母の話ではなく、母の母、祖母の思い出を書きたいと思います。
僕は大阪で生まれ育ったので、瀬戸内海の田舎にいる祖母に会ったことは数回だけです。
祖母には孫がたくさんいるので、僕のことを覚えていたのかな?って思いますが。。。
小学校のとき夏休みに田舎に行ったときに、家にすぐ近くの海水浴場に連れて行ってくれて、僕が飽きるまでずっと浜辺で日傘さして僕を見ていました。
祖母が亡くなる一週間前に僕はお見舞いに行ったのですが、そのときにはもう意識もあまりなくて、たぶん僕のこと判らなかっただろうな。
祖母がいなければ、母は生まれないし、母が生まれていなければ、もちろん僕も生まれることはないんですよね。
祖母との少ない思い出もしっかりと記憶に残して行きたいです。
スミマセン。
15日は母の誕生日でした。
忘れていませんでしたよ。でも「おめでとう」を言葉で直接伝えることはもうできないんですけどね。
今日は母の話ではなく、母の母、祖母の思い出を書きたいと思います。
僕は大阪で生まれ育ったので、瀬戸内海の田舎にいる祖母に会ったことは数回だけです。
祖母には孫がたくさんいるので、僕のことを覚えていたのかな?って思いますが。。。
小学校のとき夏休みに田舎に行ったときに、家にすぐ近くの海水浴場に連れて行ってくれて、僕が飽きるまでずっと浜辺で日傘さして僕を見ていました。
祖母が亡くなる一週間前に僕はお見舞いに行ったのですが、そのときにはもう意識もあまりなくて、たぶん僕のこと判らなかっただろうな。
祖母がいなければ、母は生まれないし、母が生まれていなければ、もちろん僕も生まれることはないんですよね。
祖母との少ない思い出もしっかりと記憶に残して行きたいです。
2007年01月21日
2007年1月21日 駅伝
昨日夜遅くまで起きていたので、目が覚めたらもう11時でした。
何気にベッドを抜け出して、テレビをつけたら広島の街が映っていました。
毎年この時期に開かれている「全国都道府県対抗男子駅伝」の実況でした。
思わず全部みてしまいました。(今日は雨だったしね)
僕は広島に暮らしていたことがあります。
住んでいた家がスタートとゴール地点の平和公園のすぐ近くでした。
その頃は、テレビで中継を見ていて、家の近くぐらいに選手がやってくると、外へ出て生で応援していました。
生で見てると凄い早いんですよね。
見る見る近づいてきて、僕の目の前をあっという間に通り過ぎてしまいます。テレビで見るのとは全然スピード感が違いますよ。
僕の家の近くでは、アンカーの選手が二度通ります。
トップの選手が通り抜けて、ビリの選手が通るまで結構時間あるんですよね。でも、ビリの選手が通り過ぎてしばらくするとトップの選手が2回目を通り抜けます。
もう、僕の目の前を抜けると後300mぐらいでゴールです。
淡々と前を向いて走る人、辛そうな顔の人、追いつかれそうになって必死の顔で走る人、いろいろな選手が走り抜けます。
あと数十秒の終わりに向かって。。。
僕は見ていた頃は、いつもビリのほうを走っているのは沖縄の選手でした。
沿道で応援する人たちは、いつも最後の選手が通るまで応援していましたね。
僕の冬の風物詩だったんですね。
何気にベッドを抜け出して、テレビをつけたら広島の街が映っていました。
毎年この時期に開かれている「全国都道府県対抗男子駅伝」の実況でした。
思わず全部みてしまいました。(今日は雨だったしね)
僕は広島に暮らしていたことがあります。
住んでいた家がスタートとゴール地点の平和公園のすぐ近くでした。
その頃は、テレビで中継を見ていて、家の近くぐらいに選手がやってくると、外へ出て生で応援していました。
生で見てると凄い早いんですよね。
見る見る近づいてきて、僕の目の前をあっという間に通り過ぎてしまいます。テレビで見るのとは全然スピード感が違いますよ。
僕の家の近くでは、アンカーの選手が二度通ります。
トップの選手が通り抜けて、ビリの選手が通るまで結構時間あるんですよね。でも、ビリの選手が通り過ぎてしばらくするとトップの選手が2回目を通り抜けます。
もう、僕の目の前を抜けると後300mぐらいでゴールです。
淡々と前を向いて走る人、辛そうな顔の人、追いつかれそうになって必死の顔で走る人、いろいろな選手が走り抜けます。
あと数十秒の終わりに向かって。。。
僕は見ていた頃は、いつもビリのほうを走っているのは沖縄の選手でした。
沿道で応援する人たちは、いつも最後の選手が通るまで応援していましたね。
僕の冬の風物詩だったんですね。
2007年01月15日
2007年1月15日 年賀状
昔は成人の日がお年玉つき年賀はがきの抽選日でしたよね。
最近は成人の日が変わっちゃったので、いつ抽選しているのでしょう?
こどものころは結構楽しみにしていました。
年賀切手シートを集めるのが好きだったなあ。。。
今になったら、なんでだろうと思いますよね。
同じぐらいの年齢のときに、日本酒の一升瓶の酒ブタを集めるのがメチャクチャ流行ったんです。
今のとは違って、フタにはコルクがついていて、そのコルクを押し込んで閉める方式だったんです。
で、そのコルク部分だけをはがして上の蓋だけにします。
それを集めていたんです。
男の子みんな集めていましたね。
僕の住む大阪北部では、日本盛とか大関、松竹梅というブランドが多かったなあ。
呉春というメーカは綺麗な黄緑色かピンク色だったのを今でもよく覚えています。あとは剣菱とかも少なくて見つけたら嬉しかったなあ。。
一生懸命めずらしいものを探していましたね。
あちこちの酒屋さんに行ってもらっていました。
集めたものはメンコ(大阪ではべったんと言います)のようにひっくり返して遊ぶゲームをやっていました。
懐かしいですね。なんで、あんなに流行ったんだろう。。。
アレッ?なんか話が年賀状の話から大きく変わっちゃいましたね。
実は年賀状出さなくてスミマセンというのが今日の話のオチだったんですが。。。
最近は成人の日が変わっちゃったので、いつ抽選しているのでしょう?
こどものころは結構楽しみにしていました。
年賀切手シートを集めるのが好きだったなあ。。。
今になったら、なんでだろうと思いますよね。
同じぐらいの年齢のときに、日本酒の一升瓶の酒ブタを集めるのがメチャクチャ流行ったんです。
今のとは違って、フタにはコルクがついていて、そのコルクを押し込んで閉める方式だったんです。
で、そのコルク部分だけをはがして上の蓋だけにします。
それを集めていたんです。
男の子みんな集めていましたね。
僕の住む大阪北部では、日本盛とか大関、松竹梅というブランドが多かったなあ。
呉春というメーカは綺麗な黄緑色かピンク色だったのを今でもよく覚えています。あとは剣菱とかも少なくて見つけたら嬉しかったなあ。。
一生懸命めずらしいものを探していましたね。
あちこちの酒屋さんに行ってもらっていました。
集めたものはメンコ(大阪ではべったんと言います)のようにひっくり返して遊ぶゲームをやっていました。
懐かしいですね。なんで、あんなに流行ったんだろう。。。
アレッ?なんか話が年賀状の話から大きく変わっちゃいましたね。
実は年賀状出さなくてスミマセンというのが今日の話のオチだったんですが。。。
2006年12月15日
2006年12月15日 忘年会
日本では今日あたりが忘年会のピークですね。
みんな楽しく飲んでるんだ。。。
以前ほどには景気も悪くないので、そこそこ派手に飲んでるんだろうなあ。
前にも書きましたが、台湾は旧暦なので忘年会は1月か2月始めでしょうね。
だから年末って言う雰囲気はないんです。
お酒を飲みたい僕としては、淋しい限りです。。。
ところで忘年会と言えば。。。。
まだ社会人2年目ぐらいの若い頃の話ですが。。。
会社の忘年会(およそ40人ぐらい)のお話です。
確か泊りがけだったと思います。
あちこちからスタッフが集まっていました。
僕は若手なので当然のように宴会の司会でした。
余興にビンゴゲームをはじめたんですが、どうも盛り上がらないんですよね。。
内心「まずいなあ」と思いながら司会をしてたんですが、どんどん盛り下がっていく。焦りました。
理由はボスがなかなかビンゴにならずに、だんだんと機嫌が悪くなっていたんですよね。
周りからは早くボスにビンゴさせろとか言われるし、でもそんなん無理やし。。。。
先にビンゴしたスタッフは申し訳なさそうに賞品を貰って、そそくさと席に戻っちゃうし。。。
遂に残り3名となったところで、僕はやらかしてしまいました。
残っていたのはボスと当時40歳ぐらいのおとなしい技術者のおじさん、そして僕!
もう、景品も残ってないので、そのふたりに前に出て来てもらったんです。
そして僕は唐突に技術者ののおじさんのモノマネをやったんです。そう、本人の目の前で!
彼は仕事の関係で全スタッフが良く知っているし、電話で話すことが多いのでみんなに判ると思って、彼の電話の応対のモノマネを。。。
ウケましたよ!会場大爆笑!でも、笑っていない人がふたり。。。
モノマネされた本人とボス。。。。
ボスの顔が怒りか酔いかは知らないけど、真っ赤になって。。。
怒鳴られました「お前、何年目だ!大先輩に向かって何をやってるんだ!!!」
僕としては場を盛り上げるために、必死で笑いを提供したもりだったんやけど。
(それに、誰でも良く知っているのはあとはボスだけやし。。ボスのモノマネやったらみんなひくに決まってるし。。)
やっちゃいました。若気の至りっちゅうやつやね!
先輩社員の方々からは後から「場の雰囲気考えろ!」とかって怒られるし、
暫くそのおじさんには相手にされないし。。
おかげで良い勉強をさせていただきました。
それが経験として生きているかは。。。別ですけどね。
みんな楽しく飲んでるんだ。。。
以前ほどには景気も悪くないので、そこそこ派手に飲んでるんだろうなあ。
前にも書きましたが、台湾は旧暦なので忘年会は1月か2月始めでしょうね。
だから年末って言う雰囲気はないんです。
お酒を飲みたい僕としては、淋しい限りです。。。
ところで忘年会と言えば。。。。
まだ社会人2年目ぐらいの若い頃の話ですが。。。
会社の忘年会(およそ40人ぐらい)のお話です。
確か泊りがけだったと思います。
あちこちからスタッフが集まっていました。
僕は若手なので当然のように宴会の司会でした。
余興にビンゴゲームをはじめたんですが、どうも盛り上がらないんですよね。。
内心「まずいなあ」と思いながら司会をしてたんですが、どんどん盛り下がっていく。焦りました。
理由はボスがなかなかビンゴにならずに、だんだんと機嫌が悪くなっていたんですよね。
周りからは早くボスにビンゴさせろとか言われるし、でもそんなん無理やし。。。。
先にビンゴしたスタッフは申し訳なさそうに賞品を貰って、そそくさと席に戻っちゃうし。。。
遂に残り3名となったところで、僕はやらかしてしまいました。
残っていたのはボスと当時40歳ぐらいのおとなしい技術者のおじさん、そして僕!
もう、景品も残ってないので、そのふたりに前に出て来てもらったんです。
そして僕は唐突に技術者ののおじさんのモノマネをやったんです。そう、本人の目の前で!
彼は仕事の関係で全スタッフが良く知っているし、電話で話すことが多いのでみんなに判ると思って、彼の電話の応対のモノマネを。。。
ウケましたよ!会場大爆笑!でも、笑っていない人がふたり。。。
モノマネされた本人とボス。。。。
ボスの顔が怒りか酔いかは知らないけど、真っ赤になって。。。
怒鳴られました「お前、何年目だ!大先輩に向かって何をやってるんだ!!!」
僕としては場を盛り上げるために、必死で笑いを提供したもりだったんやけど。
(それに、誰でも良く知っているのはあとはボスだけやし。。ボスのモノマネやったらみんなひくに決まってるし。。)
やっちゃいました。若気の至りっちゅうやつやね!
先輩社員の方々からは後から「場の雰囲気考えろ!」とかって怒られるし、
暫くそのおじさんには相手にされないし。。
おかげで良い勉強をさせていただきました。
それが経験として生きているかは。。。別ですけどね。
2006年09月26日
2006年9月26日 テレビ
ちょっと前に家に帰ってきたところです。
とりあえずテレビをつけたら懐かしい言葉が飛び込んできました。
両親のふるさとが映っています。
前にも書きましたが、両親のふるさとは瀬戸内海の小さな島です。
インタビューを受けている人たちの言葉が懐かしいです。
両親は大阪暮らしが長かったので、あまりふるさとなまりはなかったんですが、僕は田舎の言葉にはすっかりなじんでいます。
僕は広島で暮らしていたので、両親が田舎に帰ってからは良く行っていました。
僕は車だったんで親戚やあっちこっちに車で連れまわされました。
たぶん、親戚の家とかも兄弟の中で一番良く知っています。
今、茶粥を食べています!僕も昔良く食べていました。
田舎の味だったんですね。
ちょっと、懐かしい気分になっています。。。
とりあえずテレビをつけたら懐かしい言葉が飛び込んできました。
両親のふるさとが映っています。
前にも書きましたが、両親のふるさとは瀬戸内海の小さな島です。
インタビューを受けている人たちの言葉が懐かしいです。
両親は大阪暮らしが長かったので、あまりふるさとなまりはなかったんですが、僕は田舎の言葉にはすっかりなじんでいます。
僕は広島で暮らしていたので、両親が田舎に帰ってからは良く行っていました。
僕は車だったんで親戚やあっちこっちに車で連れまわされました。
たぶん、親戚の家とかも兄弟の中で一番良く知っています。
今、茶粥を食べています!僕も昔良く食べていました。
田舎の味だったんですね。
ちょっと、懐かしい気分になっています。。。
2006年08月15日
2006年8月15日 まさばあ
今日は終戦記念日ですね。
小泉さんの靖国神社参拝とかで、朝から大騒ぎでしたね。
今僕は日本に居るので実感しますね。
終戦記念日で思い出すことは、高校のときの話です。
僕の通っていた高校は、戦前からありました。
古い校舎には大きな地下室がありました。
戦争中はそこで授業をしていたとか聞いたことがあります。
僕たちの頃も一部は食堂として使われていました。
戦争が終わるまでは女子校でした。
(そのせいか、入学式での宣誓はいつも女子でした)
2年のときの担任の先生は、その女子校時代からこの学校で教えていたんです。僕が教えていただいていたときにお幾つだったか知りませんでしたが、もうそこそこおばあさんでした。でも、とっても元気!
まささんという名前でしたので、みんなこっそり「まさばあ」と呼んでいました。(ゴメンナサイ!)
先生がときどき話してくれたのが、戦争中に生徒を連れて工場動員に行っていた話です。
何キロも離れた工場まで生徒を連れて毎日通ったそうです。
ある日空襲が起こって数名の生徒が亡くなりました。
学校には慰霊の像があります。
その話を何度かしてもらいました。
きっとそのことがそれからも教師を続けて伝えていくことを決意されたんだと思います。
いつも毅然としていた先生でした。
その頃までは戦争の話は、お話として聞くことはあっても、実体験を話してもらえる機会は少なかったように思います。
だから、まさばあの話はずっと良く覚えています。
8月15日が戦争のことを静かに考える日になれば良いですね。
小泉さんの靖国神社参拝とかで、朝から大騒ぎでしたね。
今僕は日本に居るので実感しますね。
終戦記念日で思い出すことは、高校のときの話です。
僕の通っていた高校は、戦前からありました。
古い校舎には大きな地下室がありました。
戦争中はそこで授業をしていたとか聞いたことがあります。
僕たちの頃も一部は食堂として使われていました。
戦争が終わるまでは女子校でした。
(そのせいか、入学式での宣誓はいつも女子でした)
2年のときの担任の先生は、その女子校時代からこの学校で教えていたんです。僕が教えていただいていたときにお幾つだったか知りませんでしたが、もうそこそこおばあさんでした。でも、とっても元気!
まささんという名前でしたので、みんなこっそり「まさばあ」と呼んでいました。(ゴメンナサイ!)
先生がときどき話してくれたのが、戦争中に生徒を連れて工場動員に行っていた話です。
何キロも離れた工場まで生徒を連れて毎日通ったそうです。
ある日空襲が起こって数名の生徒が亡くなりました。
学校には慰霊の像があります。
その話を何度かしてもらいました。
きっとそのことがそれからも教師を続けて伝えていくことを決意されたんだと思います。
いつも毅然としていた先生でした。
その頃までは戦争の話は、お話として聞くことはあっても、実体験を話してもらえる機会は少なかったように思います。
だから、まさばあの話はずっと良く覚えています。
8月15日が戦争のことを静かに考える日になれば良いですね。
2006年07月19日
2006年7月19日 母の命日
今日は母の命日です。
もう8年になります。早いものですね。つい先日のような気がします。
その日のことは忘れることはできません。
今は生んでくれて、育ててくれたことに感謝します。
昔の人でしたから、決して愛情表現は上手くはなかったのですが、僕たち兄弟に限りない愛情を注いでくれたんだなあと、今は心から思います。
「親孝行。したいときには親はなし」と言いますが、まさにその通りですね。僕たちが元気で暮らしていることが一番の親孝行でしょうね。
こうして母親のことを思い出して、感謝する気持ちだけは持ち続けて行きたいと思います。
もう8年になります。早いものですね。つい先日のような気がします。
その日のことは忘れることはできません。
今は生んでくれて、育ててくれたことに感謝します。
昔の人でしたから、決して愛情表現は上手くはなかったのですが、僕たち兄弟に限りない愛情を注いでくれたんだなあと、今は心から思います。
「親孝行。したいときには親はなし」と言いますが、まさにその通りですね。僕たちが元気で暮らしていることが一番の親孝行でしょうね。
こうして母親のことを思い出して、感謝する気持ちだけは持ち続けて行きたいと思います。
2006年06月29日
2006年6月29日 ふりそそぐシャワー
台湾はもう真夏です。
毎日35℃を超える暑さです。
たまりませんよ!普通に歩いているだけでも汗が噴出します。。。
ふっと気がついたのですが、セミの鳴き声が大きくなってきました。
あんまり意識したことがなかったんですが、大きな声で一所懸命鳴いてるんですね。クマゼミの声がひときわ大きいです。
朝、道を歩いているとセミの鳴き声のシャワーの中で、ふっと子供のころの夏が蘇ってきました。
こどものころ夏にはセミ取りをしていました。
兄に作ってもらった竿のアミを持って毎日毎日。あれはいくつぐらいだったんだろう?小学校へ上がる前だったのかな?
でも、僕よりも弟はもっともっとセミ取りが大好きでした。
小さいのに長〜い竿を持って、一度出かけるとなかなか帰ってきませんでした。
家から300mぐらいのところに大きなお屋敷がいくつもあって、そこには大きな木がいっぱいあって、セミの鳴き声が頭の上から降り注いでいました。
そこにひとりで行っては、カゴいっぱいになるまでセミをとっていましたね。
セミの止まっている位置、横に伸びている枝の上に止まっているとか、子止まっているとかで、アミの角度を変えたり、とり方を工夫したりして、取りにくい位置にいるのばっかりを狙っていました。
小さかった弟の姿がくっきりと浮かんできました。
なんか陽炎の中に思い出も蘇ってくる感じですね。
すっかり、記憶の奥底にしまわれていたんですね。
でも、忘れたわけではなかったんだ。。。
今はセミ取りをするこどもも少ないんでしょうね。
毎日35℃を超える暑さです。
たまりませんよ!普通に歩いているだけでも汗が噴出します。。。
ふっと気がついたのですが、セミの鳴き声が大きくなってきました。
あんまり意識したことがなかったんですが、大きな声で一所懸命鳴いてるんですね。クマゼミの声がひときわ大きいです。
朝、道を歩いているとセミの鳴き声のシャワーの中で、ふっと子供のころの夏が蘇ってきました。
こどものころ夏にはセミ取りをしていました。
兄に作ってもらった竿のアミを持って毎日毎日。あれはいくつぐらいだったんだろう?小学校へ上がる前だったのかな?
でも、僕よりも弟はもっともっとセミ取りが大好きでした。
小さいのに長〜い竿を持って、一度出かけるとなかなか帰ってきませんでした。
家から300mぐらいのところに大きなお屋敷がいくつもあって、そこには大きな木がいっぱいあって、セミの鳴き声が頭の上から降り注いでいました。
そこにひとりで行っては、カゴいっぱいになるまでセミをとっていましたね。
セミの止まっている位置、横に伸びている枝の上に止まっているとか、子止まっているとかで、アミの角度を変えたり、とり方を工夫したりして、取りにくい位置にいるのばっかりを狙っていました。
小さかった弟の姿がくっきりと浮かんできました。
なんか陽炎の中に思い出も蘇ってくる感じですね。
すっかり、記憶の奥底にしまわれていたんですね。
でも、忘れたわけではなかったんだ。。。
今はセミ取りをするこどもも少ないんでしょうね。
2006年04月20日
2006年4月20日 駅
2006年03月15日
2006年3月15日 誕生日
今日は母の誕生日でした。
昭和2年生まれですから、ホントなら76歳ですね。
こどもの頃に母の誕生日を祝った記憶がありません。
昔は親とかの誕生日とかお祝いする習慣なかったのかなあ。。忘れちゃいました。
自分や弟の誕生日を祝ったことは覚えていますが。。。
今まで母に「誕生日おめでとう」と言ったことが、いったい何回あったかな?と今は思います。
今なら「おめでとう」が言えるのになあ。。
いや、ちゃんとこころのなかで言わなきゃ。。。「誕生日おめでとう。ありがとう」
昭和2年生まれですから、ホントなら76歳ですね。
こどもの頃に母の誕生日を祝った記憶がありません。
昔は親とかの誕生日とかお祝いする習慣なかったのかなあ。。忘れちゃいました。
自分や弟の誕生日を祝ったことは覚えていますが。。。
今まで母に「誕生日おめでとう」と言ったことが、いったい何回あったかな?と今は思います。
今なら「おめでとう」が言えるのになあ。。
いや、ちゃんとこころのなかで言わなきゃ。。。「誕生日おめでとう。ありがとう」
2006年02月19日
2006年2月19日 墓参り
旧正月に帰国したときに両親のお墓参りに行ってきました。
両親のふるさとは瀬戸内海の小さな島なんです。そこにお墓はあったのですが、お墓参りとか大変なんで3年前に息子たちのいる大阪に移設しました。
おかげで今回も行くことができました。
大阪の山の中にあるので、雪も少し残っていました。
お花を入れるところはこんな風に凍っていました。

ひさしぶりゆっくりと墓参りをすることができました。
ひょっとしたら大阪にそのまま住んでいたら、なかなか行かなかったかも知れませんね。
そういう点では大阪を離れて良かったのかな?
もし、母親が生きていて僕が外国に住むことになったと聞いたら、とても心配そうな顔をしたでしょうね。
今でもお墓の中で心配しているでしょうから、時間を見つけてお墓参りをしたいと思います。
寒くてとても綺麗な空
両親のふるさとは瀬戸内海の小さな島なんです。そこにお墓はあったのですが、お墓参りとか大変なんで3年前に息子たちのいる大阪に移設しました。
おかげで今回も行くことができました。
大阪の山の中にあるので、雪も少し残っていました。
お花を入れるところはこんな風に凍っていました。
ひさしぶりゆっくりと墓参りをすることができました。
ひょっとしたら大阪にそのまま住んでいたら、なかなか行かなかったかも知れませんね。
そういう点では大阪を離れて良かったのかな?
もし、母親が生きていて僕が外国に住むことになったと聞いたら、とても心配そうな顔をしたでしょうね。
今でもお墓の中で心配しているでしょうから、時間を見つけてお墓参りをしたいと思います。
寒くてとても綺麗な空
2006年01月19日
2006年1月19日 母の思い出
今日は母の月命日です。
たまには母のことを思い出そうと思います。
と言っても、僕の母の思い出ではなく母のこどもの頃の思い出の話です。
僕が小さかったときに母に聞いた母の思い出話を書こうと思います。
母の生まれは瀬戸内海の小さな島です。
家のすぐ前にはきれいな砂浜が広がっています。
僕もこどものときに母の実家に遊びに行って、海で泳いでそのまま家に走って戻ってお風呂に飛び込んだことを覚えています。
母はとっても活発な少女だったそうで、男子に負けるのが嫌いだったとか。
海で泳いでも「あそこまで競争」となると、男子に負けずに泳いでいたそうです。
で、母に負けた男子にいきなり海の中に顔を沈められてとても苦しかったって。
僕の覚えている話はそれだけです。
ちょうど話を聞いている僕が、こどもの頃の母の年ぐらいだったんでしょうね。
そのころの僕には母に少女時代なんて考えることもできなかったんでしょうね。
母はいつもそこにいる母でしか見えてなかったんですよね。
というか、正直最近までそんなこと考えることもできなかったですね。
そんなことを話でくれた母の年齢を、今の僕はもう過ぎています。
そして僕にもこどもの頃の思い出はしっかりとあります。
あたりまえですよね。
母にも思い出がいっぱいあったはずですよね。
もっと母の話を聞きたかったなって今は思います。
たまには母のことを思い出そうと思います。
と言っても、僕の母の思い出ではなく母のこどもの頃の思い出の話です。
僕が小さかったときに母に聞いた母の思い出話を書こうと思います。
母の生まれは瀬戸内海の小さな島です。
家のすぐ前にはきれいな砂浜が広がっています。
僕もこどものときに母の実家に遊びに行って、海で泳いでそのまま家に走って戻ってお風呂に飛び込んだことを覚えています。
母はとっても活発な少女だったそうで、男子に負けるのが嫌いだったとか。
海で泳いでも「あそこまで競争」となると、男子に負けずに泳いでいたそうです。
で、母に負けた男子にいきなり海の中に顔を沈められてとても苦しかったって。
僕の覚えている話はそれだけです。
ちょうど話を聞いている僕が、こどもの頃の母の年ぐらいだったんでしょうね。
そのころの僕には母に少女時代なんて考えることもできなかったんでしょうね。
母はいつもそこにいる母でしか見えてなかったんですよね。
というか、正直最近までそんなこと考えることもできなかったですね。
そんなことを話でくれた母の年齢を、今の僕はもう過ぎています。
そして僕にもこどもの頃の思い出はしっかりとあります。
あたりまえですよね。
母にも思い出がいっぱいあったはずですよね。
もっと母の話を聞きたかったなって今は思います。
2005年12月29日
2005年12月29日 母の兄
今年は戦後60年だったんですよね。
僕は戦争を全く知らない世代です。
テレビなどでいろんな話を聞いたり、新聞や本から知識はいろいろとありますが、実感としてはなかなか感じられないのが正直なところです。
そんな僕の戦争の記憶といえば、母の話でしょうかね。
母の話も直接的な戦争の話ではないのですけど。
母は戦争中山口の田舎にいたので、爆撃にあったとか食べるものがなかったということはなかったみたいです。
母は9人兄弟の5番目でした。
母の二番目の兄にあたる人が、戦争でフィリピンかどこかの南の国で亡くなったそうです。
母はその兄(僕にとっては伯父ですね)がとても好きで、良く伯父の思い出話をしていました。
いつも優しくて、良く本を読んでいて、友達が良く訪ねてきて穏やかに話してたと。
伯父の友達との話を聞きたくて、そばにまとわりついていたと懐かしそうに話していました。たぶん、母の少女時代の思い出なんだと思います。
僕がこのような話を聞いたのは、僕が小学校の低学年の頃だったと思います。
だから、母の気持ちとか全然判るはずないですよね。
そして、僕が成長すると母の話を聞くこともなくなってしまいました。
僕のこの話の記憶も遠く彼方に行ってしまっていました。
母が祖父母の墓参りのときに、一緒に伯父の墓参りをしてたことは覚えていましたけど。
今はその母も亡くなって、伯父のことを覚えている人も、思い出す人も少なくなってしまいました。
僕の生まれるずっと前に亡くなった伯父ですが、母の言葉を通じて伯父を知っています。
母を思い出すときには、母から聞いた伯父の思い出も一緒に思い出したいなと思います。
僕は戦争を全く知らない世代です。
テレビなどでいろんな話を聞いたり、新聞や本から知識はいろいろとありますが、実感としてはなかなか感じられないのが正直なところです。
そんな僕の戦争の記憶といえば、母の話でしょうかね。
母の話も直接的な戦争の話ではないのですけど。
母は戦争中山口の田舎にいたので、爆撃にあったとか食べるものがなかったということはなかったみたいです。
母は9人兄弟の5番目でした。
母の二番目の兄にあたる人が、戦争でフィリピンかどこかの南の国で亡くなったそうです。
母はその兄(僕にとっては伯父ですね)がとても好きで、良く伯父の思い出話をしていました。
いつも優しくて、良く本を読んでいて、友達が良く訪ねてきて穏やかに話してたと。
伯父の友達との話を聞きたくて、そばにまとわりついていたと懐かしそうに話していました。たぶん、母の少女時代の思い出なんだと思います。
僕がこのような話を聞いたのは、僕が小学校の低学年の頃だったと思います。
だから、母の気持ちとか全然判るはずないですよね。
そして、僕が成長すると母の話を聞くこともなくなってしまいました。
僕のこの話の記憶も遠く彼方に行ってしまっていました。
母が祖父母の墓参りのときに、一緒に伯父の墓参りをしてたことは覚えていましたけど。
今はその母も亡くなって、伯父のことを覚えている人も、思い出す人も少なくなってしまいました。
僕の生まれるずっと前に亡くなった伯父ですが、母の言葉を通じて伯父を知っています。
母を思い出すときには、母から聞いた伯父の思い出も一緒に思い出したいなと思います。
2005年11月09日
2005年11月9日 キュッ!キュッ!キュッ!
僕の家の真ん前は中学校なんです。(台湾では國中と言います。高校は高中)
夜にぶらぶら散歩していると、灯りの漏れた体育館から「キュッ!キュッ!キュッ!」という音が良く聞こえてきます。あとは時々「ド〜ン」と言う音が聞こえるだけ。ひたすら、「キュッ!キュッ!キュッ!」
これってバスケットボールの音なんです。バスケットってドリブルの音とか、ゴールにボールが跳ねる音とかのイメージじゃないですか?
でも、プレーヤーにとっては、コートを走り回って、ストップしたりターンしたりしたときにでる「キュッ」っていう音が一番イメージできるんじゃないかな?
同じ体育館でやるスポーツのバレーボールなんかだと、スパイクの「バシッ!」とかでしょ?
バスケって結構地味な音ですよね。
そう言えばバスケやってた頃、「ドンドン」と大きな音を立てて走る新人に、監督が「すり足で走れ!」って怒ってたなあ。。。
もうひとつ思い出した!バスケの選手って内股なんです。シュートを打つときもディフェンスのときも膝を内側に絞るんで内股になるんです。
懐かしいなあ。。。。オヤジ!
夜にぶらぶら散歩していると、灯りの漏れた体育館から「キュッ!キュッ!キュッ!」という音が良く聞こえてきます。あとは時々「ド〜ン」と言う音が聞こえるだけ。ひたすら、「キュッ!キュッ!キュッ!」
これってバスケットボールの音なんです。バスケットってドリブルの音とか、ゴールにボールが跳ねる音とかのイメージじゃないですか?
でも、プレーヤーにとっては、コートを走り回って、ストップしたりターンしたりしたときにでる「キュッ」っていう音が一番イメージできるんじゃないかな?
同じ体育館でやるスポーツのバレーボールなんかだと、スパイクの「バシッ!」とかでしょ?
バスケって結構地味な音ですよね。
そう言えばバスケやってた頃、「ドンドン」と大きな音を立てて走る新人に、監督が「すり足で走れ!」って怒ってたなあ。。。
もうひとつ思い出した!バスケの選手って内股なんです。シュートを打つときもディフェンスのときも膝を内側に絞るんで内股になるんです。
懐かしいなあ。。。。オヤジ!

